2015
05.31

仏教思想の視点からのマインドフルネス

仏教成立前から、インド世界には輪廻という考え方がありました。輪廻では、人間のおこないによって生存が繰り返されると考えられています。それは仏教の縁起説にも影響し、すべての物事には原因と結果があり、それらが相関して事象が成立しているという考え方となりました。

 

人間の行動を考える時も、その原因はその人の心に生じる思いであると捉えます。仏教では、この世の一切は皆な苦であり、その原因は煩悩であるとされます。煩悩を人の思いと捉えると、それがなくなれば苦もまた消滅するということになります。煩悩を生じさせているものは心の働きですから、仏教では心を静めていく事に関心が向けられたのです。

 

ヨーガや瞑想も心の働きを静めて観察する方法として古代からおこなわれてきました。原始仏典の中に、心の観察法である瞑想について示されている経典があります。その代表的なものの一つが、サティすなわちマインドフルネスの由来でもある「入息出息観経」(アーナーパーナサティ・スートラ)というパーリ語経典です。これは、呼吸法のマニュアルのような経であり、四つの領域から16の視点で心を観察するトレーニング方法が書かれています。

それぞれの領域は念処と表現され、身(身体)・受(感受)・心・法に分けられています。念処とは、対象を正しく気づいて知る事を実行するという意味が込められています。

 

法念処は、五蓋を対象として気づくこととされています。五蓋とは、貪欲(渇欲)・瞋恚(悪意)・惛眠(心の眠気)・掉悔(後悔)・疑いであり、瞑想を妨害する心の働きすなわち煩悩です。この時の気づきについて、この経典では「息を吸う時には吸うと気づき、息を吐く時には吐くと気づく。」というように表現されています。つまり、どのような対象であってもありのままに正しく知る事が、念処であるとされているのです。そして、行・往・坐・臥という動作や状態においても全てが気づきの対象となり、24時間ずっと気づき続ける事ができると考えられています。

 

瞑想には止瞑想と観瞑想がある事は既に述べました。

まずは心を1つの対象、すなわち呼吸に集中していく事から始めて、次第に集中力を高めて瞑想の境地を深めていき、心の働きを静めてそこに何物も生じない境地を目指す観察法が止瞑想です。これは、ヨーガでも理想とされた境地であり、神通力といわれる超自然的な力も体験されると考えられています。

 

しかし、釈尊はこれによっては心の平安は得られないとして、観の瞑想に入ったといわれています。たとえ止の瞑想で心の働きを止滅させる体験ができたとしても、日常の現実に戻れば様々な心の働きが起こり、また苦しみや悩みが生じることになります。そこで、釈尊は基本的な瞑想の方法は止瞑想と同様であるが、心を複数の対象に振り分けて観察していくというように瞑想の方向性を変えて展開していったのです。

 

これが、現在もおこなわれているヴィパッサナー瞑想の原型と考えられています。この観瞑想では、まず観察される対象すなわち刻々生じては消える感覚・思考・感情など体験している全ての出来事と、それに気づき観察する心の働きがある事を分けて意識していきます。

 

これは、名色分離智と呼ばれているものです。呼吸を例にとれば、息を吸うという一つの行為を、入る息という対象(色)と、入ると気づいて観察する心の働き(名)との二つに分離していくのです。

 

すると、観察対象となる感覚・思考・感情は短時間に生じては消えいくものであることが分かります。それらが絶えず変化する事、すなわち無常であることに気づいていくことになります。そして、無常のものに執着することが苦の根源である事にも気づいていくのです。また、そのような在り方を自ら思い通りにすることはできない、すなわち無我であるというもう一つの智慧も生じてくるとされています。

 

さらに観瞑想では、対象を受け止めてそれを判断する心の細かい働きである五蘊についても観察していきます。五蘊とは、色(対象)・受(感受)・想(イメージ)・行(想や識の背後で生じる心の作用)・識(判断、了別)です。私達が何かを認識する時にはこの五蘊が働き、心には記憶や体験によってパターン化された反応が次々に起こってきます。

 

この馴染みとなった反応が、苦しみや悩みを継続させる原因となる事も多いのです。このパターンを離れるためには、まずは五蘊がどのように働いたかを観察する事が重要です。また、五蘊による判断や評価が生じる前に、六根で受け止めている現実を観察してそのままとし、それ以上の反応をむやみに起こさない事も必要となります。観瞑想では、このようにして自分の心の働きに気づいていく事により、苦から脱却することが可能になると考えられています。

 

次に、仏教でいう苦とは何かをみていきましょう。釈尊は苦に三つの側面があると説いています。第一は苦苦で、身体的な痛みやそれに伴う不安や怒りです。第二は変壊苦で、喪失に伴う寂しさや悲しみです。第三は行苦で、物事が思い通りにならない事への不満です。これらは全て私達誰もが体験する苦であり、無くしたいと考えるものです。

 

しかし、苦しみから本当に開放されるためには、それと向き合ってありのままに見つめる事が必要だと仏教では教えています。瞑想の中で苦の生じるプロセスを観察する事が重要であるのもこのためです。また、苦の生じる原因の一つとして、渇愛を洞察する事も苦を受け止めるための力となります。渇愛には、感覚経験への渇愛、存在への渇愛、非存在への渇愛の三つがあると考えられています。

 

感覚経験とは、五感を通して経験する本能的衝動です。存在への渇愛とは、自分はこうありたい(あるべき)、他にこうあってほしい(あるべき)と望む衝動です。そして、非存在への渇愛とは、対象を否定して破壊したいと望む衝動とされています。これらを洞察して距離を取って観察する事ができると、自己中心的なものの見方や自ら作り出した苦の枠組みから外れた視点が得られます。

 

つまり、苦をありのままに受け止める事が苦の原因から自由になる作用をもたらし、全てが変化する中で苦も消滅していくことになるのです。

 

このように、仏教では苦しみの消滅を目指しますが、そこに至る方法について釈尊は八正道という実践項目を示しています。これは、私たちが自分自身の実践によって幸福を実現できる、つまり悟りを得られるという事を意味しています。八正道は、生活習慣を振り返るための戒、精神集中の定、安定した洞察で智慧を得る慧という三つの側面に分類されています。瞑想は、この中の定に含まれます。

 

この悟りを目指す実践過程において、様々なこだわりから離れる事で、「今、ここ」をしっかりと生きることに充足と感謝が生まれてくると考えられます。そして、何かに執着したり依存したりせずに、自らを頼りとして生きる構えができてきます。これは、自己愛を超えて自分を大切にする事を学ぶプロセスでもあり、他者を大切にする思いと共同体としての意識を構築する基盤となるものだと思います。


 

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